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- 生き残った人たちと生き返った町
- 2019.03.11
宮城県南三陸町に行ってきた。
8年前の今日、14:46に、東日本大震災が発生して、この街は、津波に襲われた。
津波が来たのは地震から30分後。
この地震で、約2万人の方が亡くなって、いまもこの町だけでも、200人以上が行方不明なんだそう。
まだどこかで生きてるかもしれない、と、
家族の帰りを待ってる人もいるかもしれないと思うと
言葉が見つからない。
さっき写真館でみた写真たちが、そのときの光景をちゃんと今日に残していた。
「絶対、忘れちゃダメだ」って言ってるみたいだった。
昨夜は南三陸町長佐藤仁さんのおうちでお寿司をみんなで囲んだ。
「おれね、自分ち2回津波で流されてんだよ。この家で建てたの3回目」と町長が言ってケラケラ笑う。
1960年にも一度、大津波がきて家が流されたことがあるらしい。
きっともう何度も話してるだろう、8年前の地震がきたときの話をしてくれた。
「防災庁舎で地震の対応をしていたら津波がきて、屋上に避難したんだけど、助かったのは53人の職員のうち、10人だけだった。あとの43人は、だめだった。」
ものすごい勢いで周りのものを流していく波の中で、手すりとか細い何かのアンテナとかに必死にしがみついて、とにかく流されないようにもう必死で、耐えた。
残った10人で、一晩その屋上で夜を明かした。
その日は雪が降ってて寒かった。寒くて震えが止まらなかった。
ひとりが持ってたライターが奇跡的に火がついた。その火で、ネクタイを燃やして暖をとった。
それがなかったら、凍え死んでいただろうって。
「残った10人に、何度も繰り返し言ったよ。俺たちが生き残ったのは、この町を、必ず生き返らせるためだ。そのために生き残ったんだ。って」
それから町長は、連日記者会見を開いて全国に現状をつたえつづけた。
そしたら、たくさんの人が応援してくれた。いろんな形だった、でも全部、本当に希望になった。
地道に記者会見をやっていたためか、南三陸には他の町の何倍もの寄付金が集まった。
町長が「自分が町長のときに、地震が起きないで欲しかった、とは思わなかったですか?」ときかれたことがあったんだって。
「そんときおれね、こう思ったんだ。俺で、まだよかった、って。だれかがこれを町長として受け止めなきゃいけないんなら、まだ俺でよかったって思うよ。」
一度被災した経験がある自分は、どうしたらいいかなにがいいかがすぐに判断できたから。
俺でよかったよ、と町長何度も言ってた。
津波で流されてしまったけど、いろんな方の支援により再建された幼稚園にも行ってきた。
「南三陸の子どもたちは、みんな素直で人懐っこくて、かわいいんだよなぁ。」
って町長が言ってたのがよくわかる。
先生たちも、園児たちも超明るくて元気いっぱいで、私たちが帰るとき、ガラスにいつまでも張り付いて手を振ってくれていた。
そのあとは、追悼式に参加させてもらった。
14:46に、1分間の黙祷をした。
目頭が熱くなって、言葉にできない気持ちでいたのは、わたしだけじゃなかったはずだ。
今回わたしたちの案内をしてくれた三浦たかひろくんは、8年前中学校2年生だった。
津波がどうやってきたのか、友達はどうだったのか、どこに逃げて助かったのか、色々教えてくれた。
彼はいま22歳になって、社会人になった。
この町のために、働きたいんだって。だから今は仙台に住んでるんだけど、4月からこの町に戻ってきて、恩返しがしたいんです。って。
彼が「恩返し」と言ったのを、
町長にきかせてあげたいと思った。
たかひろくんは追悼式には出席せずに、同級生と中学校に集まって黙祷をします、と言っていた。
「成人式なんて、本当素晴らしいんだよ。みーんな新成人が、つくっちゃうんだよ。南三陸の子たちは本当いいよ、はやくあってほしいなぁ」
自分の町のこと、人のことをこんなに嬉しそうに自慢する町長は、めちゃくちゃかっこいいと思った。
この人が町長で、本当によかった。
リーダーで、いろんなことが変わるんだ。
「さやかちゃん、来年の成人式での講演、頼んだよ」
大変な大役を仰せつかった。
来年の成人式が、南三陸のこれからが、ほんっっとに楽しみだ!!!
#小林さやか#東日本大震災#南三陸