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- インド旅日記シリアスver.
- 2019.05.18
今日はインド旅のシリアスver.日記を書きます。
まず、とにかく、インドは「生きるってなんだろう」を、わたしたち日本人に考えさせてくれる国のひとつだと思いました。
書きまとめるのに、時間がかかった。
なんか考えること、感じたことがあふれすぎててちゃんと頭使わないととりとめのない文章になりそうだったから、整理するのに時間かかった。(そして結局整理しきれずとりとめのない文章になった)
能天気日記でも書いたけど、とにかくいろいろ、もうほんとうにいろいろが違うの、日本のそれとは。行く前からわかってたことなんだけどね、いざこの目で見ると、全然また違う。
バンガロールはIT化がすすんでおり、インドの中では都会化してて(バンガロール 在住の佐野さんは「おまち」と呼んでいた。まえはインドのもっと別の地域に住んでいたらしい)比較的道もきれいだし情報も、物もちゃんとある。
それでもこんなに衝撃を受けるんだから、インドのまた別の地域やもっと別の国に行ったらもっといろんなことを思わざるを得ないんだろうと思う。
とくに衝撃だったのは、このラッセルマーケットという市場。
異臭が漂い、虫が無数に飛んでる。そこで野菜や果物、肉や魚などのナマモノが売られてる。
その場でヤギや鳥がさばかれてつるされて売られてる。
そこにまた虫が群がる。(虫がたかるくらい新鮮なんだ!と真剣にインドの方は言うらしい)
ゴミ山はいたるところに。
ここはもう特に虫と臭いがひどい。
そしてそこに、牛や犬が集まってゴミを食べてる。
たまに、プラスチックを食べちゃって死んじゃうらしい。。
商人たちは、休憩してるのか、のら犬たちと床で寝てる。
こんな光景は、日本じゃ見れない。
観光客は、わたしたち以外にひとりもいない。
でもたしかに、そこにはインドのひとたちの生活があった。
その市場を歩きながら、いろんなことを考えた。
ここにいまいる人たちは、「困ってる」わけでも「助けてほしい」わけでもない。
これが当たり前で、日々、目の前のことをただひたすらに、生きるために、毎日いつも通りにやってるだけ。
わたしたちからしたら、こんなにゴミが放置してあったら大問題だけど、
彼らにとってはもうずっと昔からこうしてきて、何の問題もない。だれかが仮に片付けても、また同じにすぐなるに違いない。彼らにとっては片付ける必要が、特にない。
普通ってなに?それって自分の物差しでしかない。環境によって形成された自分勝手な価値観でしかないんだよなぁ、みたいなことを、異臭でくらくらしながら思った。
ラッセルマーケットで見た光景や、日本と全然違う道路の様子などを見て、わたしの価値観をガーーンとぶち壊されまくって過ごし、最終日に日本人の子どもたちが集まるインターナショナルスクールの補習校にてビリギャルと愉快なオトナたちinバンガロール を開催した。
いつも通りいろんな話をした後に、
「ねえ、ラッセルマーケット行ったことある人いる?」ってこどもたちにきいてみた。
だれも、手を挙げなかった。
「お母さんお父さんたちはどうですか?」
30人くらいいる保護者のうちの、3人だけ手を挙げてくれた。
わたしね、みるべきだと思う。ちゃんと、インドにいる間に見ておいた方がいいと思う。
(ほんとはわたし、ガンジス川とかちゃんと行きたかった。もっといろいろ感じるんだろうと思う。)
自分たちの「普通」と思ってるものは、場所や文化、環境が違えば、全然「普通」じゃなくなるんだということ。
自分を知るには他人を知らないといけないのと一緒で、違いを見て感じて考えて認めることは、絶対に必要なことだと思うんだ。
インドのあの光景を見て、こどもたちはどう思うんだろう。
「きたない!」と思うだけなんだろうか。
いや、きっと大人よりもいろんなことを考えるはずと思う。
どうしてあのひとたちは、床で、あんなに安い値段で、たくさんのお野菜を売ってるんだろうか?
どんなひとがあそこで買うんだろうか?
一日にどれだけ売れるんだろうか?
病気にはならないんだろうか?
家族はいるんだろうか?どこにいるんだろうか?何人いるんだろうか?
せっかくインドにいるなら、ちゃんと見ておくべきだと思った。
こどもたちにこそ、見ておいてほしいと個人的にとても思う。
「お父さんお母さんがいいって言ったら、ぜひ、見に連れていってもらって。」と、会の最後にこどもたちに伝えた。
あのなかの、何人が本当に行ってくれるだろう。
そして、もう一つ思ったことがある。
それは、日本企業のインドの駐在員のみなさんが集まる会で講演したときのこと。
この日の演題は「部下の能力を引き出す方法」だった。
わたし部下とかいないしそんなに育てたことも過去遡ってもあんまないしマネージメントの神的存在でもないんだけど、この日もいつも通り「育てられた側」の人間としておはなしした。
ビリギャルストーリーにのせて、「わたしが母にどう育てられたのか」「坪田先生と学校の先生は何が違ったのか」「teachingとcoachingのちがい」「自己肯定感を育てるためにbeingで褒める」等々、短い時間で駆け足でおはなしさせてもらった。
するとそのあとの懇親会のときに、いろんな方がわたしのところにきてくださりお話しているなかで、だれかがこういった。
「インド人はね、褒める必要なんてないよ。」
するとだれかもこういった。
「そうそう、あいつらは褒めるとすぐつけあがって、じゃあ金をくれ、となるだけなんだよ」
といって周りも大きくうなづいて、みんなが笑った。
どうやら、インド人のみなさんは、駐在員のみなさんいわく「自己肯定感が超絶高い」らしい。
自己肯定感が高いのはなんとなくみていてわかる。人のことなんて気にしない。人からどうみられてるか、なんてこともどうでもいい。というのは4日インドにいただけでもよくわかった。そこに関しては日本人とインド人足して二で割ったらちょうどいいかも、とおもうくらい。(日本人はわたしを含めて気にしすぎ)
でも、褒められる必要のないひとなんて果たしているんだろうか、と少し気になった。
「褒める」と「おだてる」は違う。
なにかこちら側に裏の意図があって、事実に基づかないことを言って相手を持ち上げるのが「おだてる」
褒める、は「心からの言葉」であり、それは信頼関係のうえでしかなかなか出来ないんじゃないかなぁってちょっと、思った。
そんなにいうならインド人と働いてみやがれ、と言われそうだ。ほんとすいません、経験ないくせに偉そうだな、と自分でも思う。
でも、すごく考えたんだ、ほんとにインド人は認められてもなにも喜びを感じないんだろうか?褒めたら逆効果なのか?
考えたんだけど、結果わからなかった。少なくとももうすこしインドにいてみないとわからなそうだ。
ついいつもの癖でまた長くなってきたからそろそろ締めたいと思う。
こどもたちには、せっかくインドにいるんだから、ちゃんと多様な価値観に触れてほしい。
でもそういうこどもたちはきっと、数年後、「違いを認め合いづらい」日本という環境に帰ってきたときに、生きづらさを感じるんではないかと思う。
でもそれでいい。その違和感を大切にしてほしいと思う。その違和感から、なにかが変わるんだと思う。変えたい、変えなきゃ、と思わないとダメと思うんだ。
「知る」ことは第一歩だ。
「知らない」「知ろうとしない」は無責任だとわたしも自分にいつも言い聞かせてる。
帰りの飛行機の間際、今回のきっかけをくださった佐野さんと、佐野さんの旦那さんのアジュンと、息子くんふたりとご飯を食べた。
ずっっっっと喋ってる次男のタラクとそれに適度につっこみを入れながら穏やかに見てる長男のキラン。
それを幸せそうにみてる佐野さんと、「タラク、みんなが喋れないだろもうすこし静かにしなさい」と優しくいうインド人のアジュン。
インド人だから、とか日本人だから、とか関係ないなぁってこの家族を見てやっぱり思った。
長男キランが道を歩きながらぼそっとわたしに言った。
「みんなタラクがかわいいかわいいって言うんだ。あいつの裏の顔を知らないで!お風呂あがりにおしりをくっつけてくるんだ、もうほんとうにいやになるよ!」
と言っててめっちゃかわいいと思った。笑
インド人だって、認められたいのはきっと一緒と思う。
ありがとうって言われて、嬉しくない人なんてきっとこの世にだれもいないとわたしは思う。
今回のインドでの時間は、自分自身を見つめなおす時間になった。
これからこどもたちに伝えたいことが、もっと、増えた!!!
おしまい。